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EVENT・SEMINAR 2026.01.16

第18回ウェルビーイングラウンジ「無知学とは何か」

第18回ウェルビーイングラウンジ「無知学とは何か」

今回は、東京科学大学リベラルアーツ研究教育院の教授で、ゲーム作家でもあり、哲学を専門とされる山本貴光先生に「無知学」について語っていただきました。

無知学(アグノトロジー)とは、単に「知らない状態」を扱うのではなく、社会的・歴史的にいかに無知が作り出されてきたかを研究する学問である。この概念は2008年にスタンフォード大学のRobert Proctor とLonda Schiebingerによって提唱され、特に意図的・制度的に生産される無知に焦点が当てられていることが紹介されました。

従来の学問は「何をどこまで知っているか」という知識の体系化を中心に発展してきましたが、無知そのものはほとんど問題化されてきませんでした。例外的に、哲学は古代ギリシャ以来、「知っているとはどういうことか」「知らないとは何か」を問い続けてきましたが、ソクラテスの「不知の自覚」に象徴されるように、哲学的対話は、自分が実は知らないことの自覚を促す装置として機能してきた点で、無知学の遠い先祖とみなすこともできます。

無知学の代表的事例として、検閲や知識排除が挙げられました。宗教権力や国家による禁書、戦前日本の伏字出版、現代アメリカの公共図書館からの書籍排除などは、いずれも知識へのアクセスを制限し、無知を生み出す仕組みです。また、検索エンジンやSNSによる情報の非表示、偏った可視化も現代的な無知生成装置といえることが議論されました。

Proctor自身が無知学に至った契機として、タバコ産業による研究資金提供の問題が紹介されました。企業が自らに不利な事実(喫煙と肺がんの因果関係)を覆い隠すため、特定の研究に資金を集中させ、学問の方向性を歪めてきたことが、無知が戦略的に作られる典型例です。

無知は一様に否定的なものではなく、いくつかに分類できます。第一に、研究の出発点となる「資源としての無知」。知らないから研究しようと思うわけです。第二に、歴史や制度の中で探究における取捨選択により探求されず「失われた領域としての無知」。考古学や医学における無知などがこれにあたります。第三に、政府や企業が能動的に生む「戦略的無知」。タバコ産業、気候度変動などの例がこれにあたるでしょう。最後に、倫理的判断から「あえて知らないでおく」選択としての「有徳な無知」が紹介されました。

無知は個人の欠陥ではなく、社会構造や権力、メディア、学問制度によって日々生産されていると認識することが重要です。無知学は、知識社会の前提を問い直し、「なぜ私たちは知らないのか」を明らかにするための重要な視座を提供する学問であることが紹介されました。

ディスカッションでは講義に基づき活発に行われ、医学や法学では統計やエビデンスといった「普遍的知識」と、目の前の患者・事例という「個別性」の間に常にズレがあるが、実践とはこのズレを抱えたまま判断する営みでありここに哲学的問題があること、ワクチンのように専門家の正確な説明は、市民にとって理解不能になりがちで専門知を「翻訳」する中間層が必要なこと、AIやSNSの時代において最大の危機は「無知」よりも「好奇心の喪失」であること、かつて支配的だった価値観(白人・異性愛男性中心)は、現在問い直されていること、ゲーム作家として熟練プログラマーは「自分は必ず間違っている」と前提し、徹底的にテストするように、知に対しても対話や思考訓練による検証が必要であること、理論と実践の循環の重要性などが議論されました。